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なぜその人の話を聞きたくなるのか?ストーリーの破壊力と、断片的な知識の違いのお話

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同じテーマで話していても惹き込まれる人と、そうではない人がいる。

その違いは何だろうか。

それは【連続性があるか単調的か】という部分に隠されていると思う。
つまり、ストーリー仕立てであるか、断片的な知識を並べているかという違いだ。

さて今日は、ストーリーが秘める可能性というテーマで、文章を書いていこうと思う。

以前、「饗宴」という哲学書を読んでいて、ソクラテスの語った話が他の知識人たちとは全然違うものやったから、何がこの違いを生んでいるのか?ということを考えた結果、どうやら【ストーリー】が鍵を握っていたようだ。

饗宴のあらすじ→「愛について」をテーマに、多くの知識人たちが酒を飲みながら色々と議論していく。その中にソクラテスもいて、順番に自分たちの話を披露する様子をプラトンが巧みに描いている。

ソクラテスはこの「饗宴」において最後に話すんやけど、その内容が他の人とは大きく違っている。この宴では、愛やエロスといった概念的なことがテーマにされていて、みんな自分の持っている知識とかを披露していく。

ソクラテスと、他の知識人たちとの違いは何なのかのかというと、


ソクラテスは人に焦点が当たっていて、他の知識人たちは話す情報に焦点が当たっている

つまり、他の人がすでにあった事実や、他の分野のことと関連づけて話を展開しているのに対して、ソクラテスは別の誰かから聞いた話ではあるけど、連続性のあるストーリーを展開しているのだ。


ソクラテスが自分で創作したという説もあるけど、いずれにせよ断片的な知識を並べただけではない。ざっくり内容を説明すると、

『ある人から愛についての壮大な話を聞いて、それを自分なりに考えて探求し、概念的な理解を深めて1つの真理に至る』

というストーリー。
これは、仮に作り物であってもソクラテスの口からしか、聞くことはできないと思う。

断片的な知識を並べて相手に発信するということは、別に悪いことじゃないけど、発信者の表現能力が優れていないと、途端につまらなくなる。

だって教科書に書かれているようなことを淡々と話されても、聞きたいと思わないでしょ?

 その人から聞かなくても、
もっと詳しく書かれているものにアクセスすればいいわけやから。

代用が効いてしまうと、自分がわざわざその発信する必要は無くなってしまう。


その人から話を聞きたい=その人からしか聞けない


ということやから、そういう意味でもストーリーというのは誰がいうかにおいて、重要な要素となる。

さっきの「饗宴」の作中においても、知識人たちの表現能力が高かったから、事実を並べているだけでも若干面白くはなっていたけど、ソクラテスのストーリーとは全然違ったものやった。


ソクラテス以外に5~6人話していたけど、
僕の記憶に残ったのは神話を話していた1人だけ。

ストーリーは別に専門的な知識などがなくても、自分の経験や行為による結果、どういうことをその時考えたのかという『自分情報』を中心に構成できるから、みんな生きてる限りは自分だけのストーリーを作ることができる。


そして、ストーリー中に散りばめた感情や葛藤に、人々は共感したりするのだ。そこから、

「その人の話をもっと聞いてみたいな」とか、

「考え方が面白いからこの人から学びたい」という気持ちになっていく。

最初から「自分情報」を用いてストーリーを作るのが難しければ、
仕入れた知識をストーリーっぽくしてコンテンツを作ればいい。

例えばこの記事のように、元ネタは「饗宴」という哲学書から持ってきてるけど、そこから僕が得た学びを自分の思考と融合して、新しいものを作り上げた。


もしこれを簡単に、

『ソクラテスが話していたことが、ストーリー風になっていて、他の人より印象に残った』

という部分だけを書いても面白くないだろう。

また、そういう箇条書きなら他の人でもできると思うけど、こうやって1つの記事に落とし込み、自分のコンテンツとして表現することは、おそらく僕にしかできない。

特定の部分に気付けるかの視点や知性、それを繋げてストーリーにする能力など、色々な要素が重なりあってこの記事ができているからね。

別にこれは僕がすごいわけでも何でもなく、

【自分にしか創造できないであろうものをコンテンツにしている

だけ。



どこの部分を切り取ってストーリーにするかは人によって違うわけやから、そういう所をもっと全面に出したほうが、みんなユニークな存在になれるはず。

ストーリーに味を出すには、自分の考えたことや価値観などを表現したり、大きな転換点などのイベントがどうしても必要になってくる。

それらは全て、

『なんらかの行為によってもたらされる物』やから、行動を起こさないとそもそもストーリーが形成されない。

普通の人なら見過ごしてしまうであろうことが、ストーリーを構成する要素になるから、結果だけではなく過程も全て記録しておいた方がいいのかなと。

ただ、何でもかんでもストーリー風にすればいいのか?
と言われると、実はそうでもない。

ビジネス系発信者たちがプロフィールに書いてある『どん底からの逆転劇!』みたいなものは、「そんなに多くの人がどん底まで行くか?」という不信感を抱くくらい胡散臭くなってしまうから、あまりそういうもので人を集めるのは好ましくない。


別にそれを達成したところで、その人独自のストーリーじゃないから。
捏造されてるものもあるやろうしね。

本当に無一文になって、その様子を毎日画像と共にアップし、成り上がっていくとかであれば、リアル感もあって立派なストーリーになる。

やけどみんなその過程をすっ飛ばして、「昔は大変だったけど今こうなりました!」というものばかり。

それはもはや、なんなんだって話。


どういう道のりを経て、そこに辿り着いたかを表現しない限り『共感』は得られないのだ。結果は、過程から生み出された副産物なんやから、良かった悪かったはそこまで人を集めることに影響しない。


クラウドファンディングとかでも、最初から成功するかどうかは分からへんけど、

「その人やプロジェクトを応援したい!」という気持ちや、価値観とかに共感した人が集まってきているはず。みんな言葉では説明出来ないような部分に惹かれ、「ファンの1人」としてストーリーを楽しんでいる。

こういう人を巻きこんでいけるストーリーを、僕らも創造していく必要があるんよね。長々と書いてきたけど、

「物事には連続性が必要で、単体の出来事を時系列で並べても、多くの人は興味を持たない。だから、ストーリーを構成する要素を日々拾い集め、自分だけのオリジナル作品を作っていこう」


というのが、この記事で伝えたかったこと。

ということで今日はこの辺で。ではまた。

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ジラ谷
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世界観構築やら、思考力やら言語化について発信してます。他にはない面白いコンテンツを用意してますので、楽しんでいってくださいまし。
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