レンズによる見え方の違い。ウインターカップの決勝戦を見て、母と僕が感じたこと。
さっきテレビで見てたのは、高校バスケの全国大会である『ウインターカップ』の決勝戦。
高校バスケやNBA(世界最高峰バスケリーグ)は、日頃から趣味の一環としてチェックしており、今日は時間があるので、のんびりと試合を観戦していました。
リビングにいたのは、母と僕の2人。
母は別にバスケの経験もないし、スポーツにもそこまで詳しくないので、でかい高校生が動き回っているのを見て、「すごい動きをするなぁ。若くていいねえ」という見たまんまの感想を述べていたんです。
別に,
ルールすらも知らなかったらしく、当然戦術や細かい動きというものを見せられても、同じように見えるのは、ごく普通のこと。
一方僕は中学の時にバスケ部で、今でもバスケのことを多少は知っているから、試合を見た時に感じることが全然違ったんです。
「ディフェンスのシステムはこうなんや」とか、
「ちょっと攻め方が単調になってる」とか、
「上手に解説してるなぁ」
などなど。
同じものを見ていても、知識や経験の差によって、こうも見え方が変わるんだなぁと、1人で色々と考えていたわけですな。
この違いは、僕がバスケというレンズを持っているから、試合を見た時に入ってくる情報量が、母と比べて多かったというのが理由で生じたこと。
当然、僕よりもバスケに詳しい指導者や、プロバスケ選手が同じ試合を見ていたら、さらに濃い情報を受け取ることでしょう。
この場合は、バスケというレンズの有無ではなく、厚さに差が生じているのです。
また、体の動きを研究している研究者から見れば、『体の動き』という別レンズの効果で、違った感想が出てくるはず。
このように経験や知識を得ることで、レンズという別世界と自分をつなぐ、目に見えないアイテムを入手できるのです。
より深く関わっていけば、厚みを増やすことも可能。
ここまで書けば、ピンとくる人もいるかもしれませんね。
そう、情報発信においては、このレンズをどれだけ持ち合わせているかで、その人の面白さというものは決まるのです。
ビジネスやTwitter運用などを語るにしても、違うフィールドのレンズを多数持ち合わせていれば、色んな視点から対象物を語ることができるというわけで。
脳科学のレンズ、
芸術のレンズ、
西洋哲学のレンズ・・・
というように、僕たちの世界には無数のレンズがそこかしこに散らばっており、自分次第であらゆるレンズを獲得できるんですよね。レンズを持っている人からすれば、見たものの感想をそのまま語っているだけやのに、側からみれば、「何か魔法のようなものがあるんじゃないか?」とさえ、思ってしまうと。
だって、見ている対象物は同じですから。
その結果、「自分とこの人は何がここまで違うんやろう」という感想がうまく言語化できず、『すごい人何やなぁ』という位置付けになるんです。
発想が面白い人、同じものを見て全然違うものを持って来れる人は、少なからずこのレンズというものを、他の人より多く持ち合わせていることが多いですね。
という秘密が分かったのであれば、僕たちがやるべきことはただ1つ。
それは、他の人より多くレンズを獲得し、色んな世界を自分の視点で語っていくこと。
まずは1つの分野をじっくり深めて、より全体像が鮮明に見れるように訓練していくんです。それが出来てきたら、複数のレンズを重ね合わせ、そこから浮かびあがる自分だけの視点を、世に向けて発信していけばいいわけで。
その積み重ねで、自分だけのユニークネスが創造されていきますから。
単に知識を仕入れて、「これを元に情報発信をしていくぜ!」という所で止まるのではなくて、レンズという武器を元に、見える世界をどんどん鮮やかにしていくという意識で情報に触れていくと、使える知識として定着しやすくなりますよ。
最終的に応援してたチームが勝って、なんか僕も嬉しくなりました。
休憩できたから勉強に戻ろうかな。
ということで今日はこの辺で。ではまた。